「わたしはなぜ日本基督教団の教師となるか」
 ―召命の自覚との関連で―

 教団設立(1941年6月)に、太平洋戦争の影響がどんなに大きいものであったかが思われます。故に、戦責告白(1967年9月)に対する批判、戦後に残された痛みもまた容易に尽きることはないと思うのです。1945年4月、通学していた女学校・家もともに東京の空襲で焼けました。私は2年生になったばかりでした。戦後、金沢(父の郷里)に移り、キリスト教と出会い、1953年5月金沢教会(上河原雄吉牧師)で受洗。そこに教団の教会との出会いがありました。そしてそこで成長させられ、1959年3月若草教会(加藤常昭牧師)にて結婚。従って、私の原点に於ても戦争の影響は大変大きいと思うのです。

 私は今まで機をとらえて、戦争を知らない子どもたちに、戦争の恐ろしさと平和の尊さを語ってきました。また、子どもたちを謙遜な人間に育てたいと願ってきました。真の謙遜は信仰(神様を知る)から生れると思います。そして、生徒数減少傾向にある教会学校を活気あるものにしたいと願うようになりました。キリスト教教育を学び、教育主事の資格を取得したいと望み、大学入学資格試験に挑戦し、合格した上での大学受験となりました。ちょうどその頃、夫から「伝道者を目標に」と言われました。大変な驚きでした。私は、とてもその器ではないと教育主事への道を歩みだしました。しかし、神さまはこのような者を顧みて奇跡のような恵みを与え続けてくださいました。

 私は、聖和大学入学以来、聖旨を問う祈りを祈り続けていました。そして、将来の進路を考え祈っていたとき、『御言葉を宣べ伝えなさい。』(テモテへの手紙二4章 2節)との主の御命令を聴いたのです。それは、1993年1月25日の朝でした。